稲田家家老屋敷跡
この屋敷は、寛延3年(1750年)に元締役の稲田利左衛門が住んで以来、明治5年(1872年)に稲田又左衛門熙孚(ひろみち)が小迎村(西海市西彼町)の下屋敷に転居するまで122年の間、稲田氏の屋敷となりました。その後、稲毛惣左衛門(郷村記の編者)が譲り受けましたが、火災で全焼しました。その後は朝長慎三衆議院議員の所有となり、現在は別の個人宅となっています。
郷村記によると「表口の長さ35間3尺(約64.5メートル)、面積は3反3畝(約3,270平方メートル)」とあります。庭園は10代藩主純昌の設計によるものです。書院の内部はすべて純昌の自筆の絵が描かれていました。これは火災になる前に下屋敷に移されていたため焼失は免れました。
天保年間(1830年~1844年)、朝川善庵(ぜんあん)・広瀬淡窓(たんそう)・広瀬旭荘(きょくそう)の学者などがたびたび訪ねました。淡窓は「大村侯(純顕)は、実に礼儀正しく至れり尽くせりで、諸大名の中でも学問好きである。また、家老以下の重臣達もみな主君に仕え、その中でも稲田又左衛門は最も温厚な君子で家老としてふさわしい」と記しています。
現在は、建物は残っておらず、高い石垣や堂々とした門の跡が残っています。郷村記によると「表口の長さ35間3尺(約64.5メートル)、面積は3反3畝(約3,270平方メートル)」とあります。庭園は10代藩主純昌の設計によるものです。書院の内部はすべて純昌の自筆の絵が描かれていました。これは火災になる前に下屋敷に移されていたため焼失は免れました。
天保年間(1830年~1844年)、朝川善庵(ぜんあん)・広瀬淡窓(たんそう)・広瀬旭荘(きょくそう)の学者などがたびたび訪ねました。淡窓は「大村侯(純顕)は、実に礼儀正しく至れり尽くせりで、諸大名の中でも学問好きである。また、家老以下の重臣達もみな主君に仕え、その中でも稲田又左衛門は最も温厚な君子で家老としてふさわしい」と記しています。
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