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キリシタン(長崎空港・大村エリア)

妻子別れの石

ここは、江戸時代の大村藩処刑場(斬罪所)の入口に当たり、明暦3年(1657年)の潜伏キリシタン大発覚事件である「郡崩れ」に関わる史跡です。地面に半分埋まっている丸い石がこれに当たります。大村で処刑されることとなった131人は、大村牢から200人の武士の厳しい警護を受けて、斬罪所に連行されました。この信者たちが、家族と最後の別れを惜しみ、水盃を交わした場所がここであったといわれています。
言い伝えによると、この石はとめどなく流れた悲しみの涙でぬれたので、別名「涙石」と呼ばれ、苔が生えないといわれています。斬罪所はここから800メートルあまり北にあり、昔はそこまで細い道が真直に続いていたといわれています。

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住所

長崎県大村市杭出津3丁目

電話番号

アクセス

長崎県営バス「協和町南」徒歩4分

よく一緒に訪れられるスポット
大村純忠終焉の居館跡(大村純忠史跡公園)
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大村純忠終焉の居館跡(大村純忠史跡公園)

ここは、坂口館とも呼ばれ、屋敷の広さや居館跡は不明ですが、古くは大村家の重臣で庄頼甫(しょうよりすけ)の屋敷だったといわれています。のちに龍造寺隆信の圧迫を受け、領主の座を退いた大村純忠が晩年に隠居した所です。純忠は、日本で最初のキリシタン大名となり、洗礼名をドン・バルトロメウといい、敬けんなキリスト教信徒でした。坂口館で病と闘いながらも、ひらすら信仰の生活を送っていましたが、天正15年(1587年)、55歳の生涯を閉じました。横瀬浦や長崎の開港、キリスト教への入信と布教、天正遣欧少年使節の派遣、宿命的な近隣諸国との争いなど、純忠の一生は波乱に満ちたものでした。待ちにまった少年使節の帰国の姿を目にすることなく、この世を去ったのです。坂口館には、「館の川(たちのかわ)」と呼ばれ、どんな干ばつの時にも枯れることがない清い流れがありました。また、庭園の泉水となり年中きれいな水が湧き出していました。周囲の景観は変わりましたが、清らかな水の流れと苔むした石組みに、わずかに昔を偲ぶことができます。現在は、この庭園跡を中心に整備され、大村純忠史跡公園となっています。

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新大村

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