https://common.areamarker.com/v1/company/stlocal/img/kyoten_POMR00092_COL_41.jpg
https://common.areamarker.com/v1/company/stlocal/img/kyoten_POMR00092_COL_41.jpg
shadow

label-miru
キリシタン(長崎空港・大村エリア)

妻子別れの石

ここは、江戸時代の大村藩処刑場(斬罪所)の入口に当たり、明暦3年(1657年)の潜伏キリシタン大発覚事件である「郡崩れ」に関わる史跡です。地面に半分埋まっている丸い石がこれに当たります。大村で処刑されることとなった131人は、大村牢から200人の武士の厳しい警護を受けて、斬罪所に連行されました。この信者たちが、家族と最後の別れを惜しみ、水盃を交わした場所がここであったといわれています。
言い伝えによると、この石はとめどなく流れた悲しみの涙でぬれたので、別名「涙石」と呼ばれ、苔が生えないといわれています。斬罪所はここから800メートルあまり北にあり、昔はそこまで細い道が真直に続いていたといわれています。

WEBサイトはこちら

住所

長崎県大村市杭出津3丁目

電話番号

アクセス

長崎県営バス「協和町南」徒歩4分

よく一緒に訪れられるスポット
大村純忠終焉の居館跡(大村純忠史跡公園)
label-miru

大村純忠終焉の居館跡(大村純忠史跡公園)

ここは、坂口館とも呼ばれ、屋敷の広さや居館跡は不明ですが、古くは大村家の重臣で庄頼甫(しょうよりすけ)の屋敷だったといわれています。のちに龍造寺隆信の圧迫を受け、領主の座を退いた大村純忠が晩年に隠居した所です。純忠は、日本で最初のキリシタン大名となり、洗礼名をドン・バルトロメウといい、敬けんなキリスト教信徒でした。坂口館で病と闘いながらも、ひらすら信仰の生活を送っていましたが、天正15年(1587年)、55歳の生涯を閉じました。横瀬浦や長崎の開港、キリスト教への入信と布教、天正遣欧少年使節の派遣、宿命的な近隣諸国との争いなど、純忠の一生は波乱に満ちたものでした。待ちにまった少年使節の帰国の姿を目にすることなく、この世を去ったのです。坂口館には、「館の川(たちのかわ)」と呼ばれ、どんな干ばつの時にも枯れることがない清い流れがありました。また、庭園の泉水となり年中きれいな水が湧き出していました。周囲の景観は変わりましたが、清らかな水の流れと苔むした石組みに、わずかに昔を偲ぶことができます。現在は、この庭園跡を中心に整備され、大村純忠史跡公園となっています。

common-location_gr

新大村

Copyright © ZENRIN CO., LTD. All Rights Reserved.
STLOCALとは、旅するあなたに、 そのまちでのとっておきの過ごし方をご提案するサービスです
写真提供:長崎県観光連盟写真・記事提供:公益財団法人佐世保観光コンベンション協会
教会の写真掲載に当たっては大司教区の許可をいただいています。
当ウェブサイトの各ページのテキスト・画像の無断転載・複製を固くお断りします。
common-warn_cookie

このサイトではサービス向上のため、Googleによるアクセス解析ツール「Googleアナリティクス」でCookie等を利用しており、サイト訪問者の情報をツール提供事業者へ送信しています。詳しくはこちら

logo_walk_text