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大村純忠の居城から見えるものー大村巡礼スポット

2024/3/19 公開

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大村駅

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日本初のキリシタン大名となった大村純忠は、どこを居城にしていたのでしょう。それは、大村市街地を見下ろす小高い丘の上にある「三城城」です。JR大村駅の背後に広がるこんもりとした竹林が目印です。丘の横腹にはトンネルが穿たれ、その足元を西九州新幹線がかすめて走ります。

日本のキリシタン布教は、フランシスコ・ザビエルにより鹿児島で始まります。やがてザビエルは、ポルトガル船が出入りする平戸にも3度入るなどして布教を行いました。しかし、ザビエルが日本を去ると司祭のヴィレラが松浦氏により追放され、布教の中心は西彼半島の大村領横瀬浦に移ります。純忠がイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレスによって洗礼を受けたのは、この横瀬浦においてだったのです。

純忠の決意

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「トーレスは彼の決意を認めた。それで純忠は重要な家臣25名と共に教会に赴いた。(中略)夜の暗闇の中で武士たちの重々しい足音が狭い路上に聞こえ、教会ではトーレスとフェルナンデスが待っていた。フェルナンデスは彼らに未明まで話し続けた。ついにトーレスは『今までに聞いた説教によって、十分教義を理解し神のことに通じたから、聖なる洗礼を授けてもよい』と考えた」(参考資料:「長崎を開いた人、コスメ・デ・トーレスの生涯」パチェコ・ディエゴ/中央出版社)

また、ルイス・フロイスも「日本史」の中でこう書き記しています。
「かくて大村殿は、すべて身分の高い、かの家臣たち全員の真中に跪き、他の誰よりもいっそう謙虚な態度で両手を合わせた。そして司祭が、殿の洗礼式をよりいっそう盛大にしようとしてポルトガル人を呼びたいと思ったところ、大村殿は、その必要はない、自分の代父になってくれる方が一人いれば足りる、と言った。こうして司祭は殿に洗礼を授け、ドン・バルトロメオの(教)名を与えた」(訳文:松田毅一・川崎挑太訳「フロイス日本史6」、大村市歴史資料館展示資料)

負けないための城「三城城」

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南蛮貿易による利益を確保したいと望み、キリスト教による家臣たちの団結を図ろうとしていた純忠。しかし、同時に周りを多くの敵に囲まれ、横瀬浦でもポルトガル船が焼き討ちに遭うなど、さまざまな妨害に遭いました。このように生涯にわたって近隣領主や身内からの攻撃を受けていた純忠が、洗礼を受けた翌1564(永禄7)年にリアルな危機感をもって築造したのが、この三城城だったのです。したがって、ここはなによりも戦いを想定した「負けない」城でした。尾根上の主要な曲輪(城内の平らな区画)は大きな横堀によって分断されています。戦国時代の特徴である切岸(山を人工的に削って造った崖)や堀、土塁でしっかり守られています。

三城城では、かつて「三城七騎籠」(さんじょうしちきごもり)と呼ばれる戦いが繰り広げられました。1572(元亀3)年、大村領に隣接する後藤氏は、平戸の松浦氏と諫早の西郷氏と謀り、軍勢1500名でこの三城城を包囲しました。しかし、純忠はじめ武将7人を含む女性や子ども70人ほどで抵抗、城外にいた家臣たちの決死の働きによって形勢を逆転させ、大勝利を収めました。城の三方を敵に包囲されながらも勝利したこの籠城戦は、ルイス・フロイスの「日本史」でも伝えています。また、発掘調査により、南側からは発射された火縄銃の弾丸が出土し、戦闘が実際に起こっていたことを裏付けられました。
その他、純忠の暗殺計画や長崎の教会の焼き討ち事件など、純忠の三城城での日々は戦いに次ぐ戦いでした。

純忠に関する資料が残る大村市歴史資料館

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大村市歴史資料館には、純忠が支城を守る家臣に対し、城内にとどまりつつしっかり守るよう命じた「諸城固守二付檄文」も示されています。常に戦いのことを考えていた純忠の素顔が垣間見られます。

とはいえ、城内からは輸入陶磁器や国産陶磁器、茶釜などが出土しており、生活の場としても使われたことがうかがえます。ちなみに、この地の遺跡は保護のために上から土をかぶせられており、案内板の立つ竹林の向こう、主郭があったと思われる場所には、長崎県の忠霊塔が建造されています。
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三城城跡

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現在の三城城跡で、当時の面影を追うのはなかなか難しいものがありますが、出土した遺物や関連資料の多くは、大村市歴史資料館にあり、全体の巧妙なレイアウトなどもそこで俯瞰できます。

三城城は純忠の子、喜前(初代大村藩主)まで使われましたが、1599(慶長4)年に大村湾を臨む玖島城が築かれ移ったことから、居城としての役目が終わりました。現在、この地の西側には富松神社があります。
 
この三城城跡から北に3kmほど行った国道444号線近く、郡川沿いの坂口が、純忠終焉の地とされています。この地にはかつて純忠の別邸「坂口館」があり、宣教師のための学校「ノビシアード」があったとされています。戦いに明け暮れた後、主の座を退いた純忠は結核を患い、宣教師と共に穏やかな晩年を過ごしたとされています。
坂口館跡は、現在「大村純忠史跡公園」(市指定史跡)として庭園などが整備されています。

取材協力:大村市歴史資料館
参考資料:『旅する長崎学』1、2(長崎文献社発行)
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