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平和の尊さよ。長崎で原爆の記憶と爪痕をたどる

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浦上・平和公園

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太平洋戦争で原子爆弾が投下され、想像を絶する被害を受けた長崎。広島と並び世界でたった二つだけの核攻撃を経験しているこの街には、爆心地近くに造られた平和公園ほか、当時の記憶を継承するための施設や遺構が点在しています。長崎へ来たのなら、やはりこれら現場を訪れ当時の悲壮な光景に思いを馳せておきたいものです。 場所は、市内の中心部を少し離れたJR浦上駅の北方面にあります。

長崎原爆資料館

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平和公園は面積にして18.5ヘクタールほど、陸上競技場やプールほかスポーツ設備も数多い総合公園ですが言わずもがな、特筆すべきは原爆関連のスポットが数多いこと。展示内容が充実している原爆資料館はぜひじっくりと見学することをおすすめします。 被爆当時の惨状、原爆や核兵器自体のこと、原爆投下までをめぐる当時の戦況や国際情勢の経過、それに戦後の街の復興に至るまで、総合的な理解が深まる施設です。

原子爆弾「ファットマン」の原寸大模型、民家から見つかった、原爆投下時の時刻で止まったままの柱時計もインパクトがありますが、被害を受けた当時の浦上天主堂の聖堂も一部が原寸大で再現。 荒涼としていたであろう当時の一帯のようすがどんなだったか、想像が膨らんでくるはずです。

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国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館

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2003年に設けられた、原爆による死没者の追悼、および平和祈念のための施設。地下に広がる吹き抜けの追悼空間には死没者の氏名を記した名簿が収められており、その名簿棚の向きも原爆落下地点の方角を向いたものになっています。 施設は原爆資料館と地下通路でつながっているので、ふたつセットで訪れてみましょう。

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稚桜神社

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平和公園の敷地を出て少し歩いたところにある、爆心地から500メートル圏内にあたる稚桜(わかざくら)神社。長崎大学医学部の正門のすぐ横です。 当時界隈で暮らしていた人のほとんどが即死しており、境内には関連する慰霊碑も建てられています。

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長崎大学 坂本キャンパス

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医学部が置かれている、ここ長崎大学坂本キャンパス。原爆当時ここには長崎医科大学がありました。爆心地への距離の近さからやはり当時の建物は全壊全焼、学生・教職員あわせて合計約900名もの命が失われています。 キャンパスには爆風を受け約10度傾いたままの正門門柱が保存されており、落下当時の凄まじい現場のようすを今に伝えています。また戦時中には配電室として使われたゲストハウスは建物ごと現存しており、爆心地から半径1キロ以内に残る貴重な被爆建築物です。

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山王神社

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境内にある樹齢500〜600年とされる大きなクスノキが、被曝して一時は枯れ木同然になるも、2年後にはまた新たな芽を出したことで当時の市民に少なからぬ希望を与えました。樹医による大掛かりなケアを経て今なお元気な、街の再生を象徴するような大木です。

山王神社でもうひとつ目にしておきたいのが、こちらの「一本鳥居」。参道の二の鳥居が半分だけあってまるで一本柱状態ですが、これは原爆によって爆心地に近い側のみ倒壊してしまったからなのです。

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被爆当時の地層

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ここに保存されているのは、被爆当時の地層。よく見ると茶瓶やガラス瓶、柄の折れたペンチといった生活の香り漂うモノたちも見つけることができ、その生々しさに、焦土と化した当時の光景が脳内に立ち上ってくるものを覚えます。

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原爆落下中心地

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この三角柱の碑こそが、まさしく爆心地です。ここから真上を見上げた先、上空およそ500メートルのところであの原子爆弾が炸裂、街は一瞬にして地獄へと変貌することとなります。昭和20年8月9日、午前11時2分のことでした。

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松山町防空壕跡

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爆心地からわずか100メートルの距離にあったこの防空壕。爆弾落下当時、たまたまこの中で遊んでいたために奇跡的に助かった9歳の少女がいました。ここ松山町でただひとりの生存者とされています。

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平和祈念像

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おなじみのこのポーズ。平和公園に限らず長崎市そのものを象徴するようなモニュメント・平和祈念像は彫刻家・北村西望が5年の歳月をかけて昭和30年(1955)に完成したものです。 天を指した右手で原爆の脅威を、水平に伸ばした左手で平和を、軽く閉じたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈るようすをあらわしています。

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山里小学校

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原爆落下当時、ここにあったかつての山里国民学校は爆風で1,2階を残して倒壊、夏休みにつき登校こそしていなかったものの校区内の児童1,581人中およそ1,300人が、また教師も28名が命を失いました。 資料室、また校舎裏手の崖に掘られた当時の防空壕などがあって、郵送による事前申し込み制のもと来訪・見学できるようになっています。

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永井隆記念館

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長崎医科大学(現長崎大学医学部)で放射線医師として勤務していた永井隆博士。原爆投下により自身も被爆したものの被爆者の救援に奔走、また原爆後遺症の研究や執筆活動に精を尽くしました。 記念館の隣には「己の如く隣人を愛す」の意味からとられた「如己堂」という、小さな書斎が残っています。

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浦上天主堂

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明治に入ってキリシタン弾圧の禁制が解かれ、長年にわたる計画と建設の末、大正はじめに完成した浦上天主堂。東洋一のレンガ造りのロマネスク式大聖堂として君臨するも、そのわずか30数年後には原爆による倒壊を余儀なくされます。 昭和34年(1959)に鉄筋コンクリートで再建されたのち、当初の姿を取り戻すべく昭和55年(1980)にはレンガタイルで改装されています。原爆の爆風に耐えた鐘が今でも一日三回、その音を周囲に響かせます。

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城山小学校平和記念館

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浦上川をはさみ平和公園の向こう側にある城山小学校には、爆心地から500メートルという近さで被爆した校舎の一部が残されているだけでなく、直後の長崎の街を収めた写真、当時の遺物や校舎を復元した模型なども並ぶ展示施設として活用されています。 事前問い合わせ制のもとで見学できる点に注意しましょう。 ※情報は取材当時のものです。詳細は公式サイトなどでも事前確認することをおすすめします。



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この記事で紹介したスポット

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写真提供:長崎県観光連盟写真・記事提供:公益財団法人佐世保観光コンベンション協会
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